怖い絵から思うこと③ 「死と樵」
1年の終わりに「死」がテーマとは何とも重苦しい話ですがよかったらお付き合いください。
「怖い絵」(中野京子著)に登場してくる作品には、宗教や政治などを背景に死を表現したものが多いのが特徴です。やはり人にとって、死とは怖いものであると言えますね。 そりゃそうです。死って怖いです。
死とはどんなものか、魂はどこにいくのか、そもそも魂とは?…
未知なるもの。それが恐怖なのかもしれませんね。
ついこの前ですが、ネットでこんなニュースを見ました。
高層ビルからユーチューバー転落死 危険なパフォーマンス動画撮影 中国 | ニュース速報Japan
彼は生活費や病気の母親の治療のためにお金が必要だったようです。他にも色々危険な動画を公開していたことからこれが日常だったようです。
しかし、死は突如訪れました。
その日もまさか自分が死ぬとは微塵も思っていなかったでしょうね。
いつかは訪れる死。それが正確にいつなのかなど誰にもわかりません。
来年の今日はもうこの世に居ないかもしれない。それが明日かもしれない、1秒後かもしれない…
ただ、毎日そんなこと考えて悩んでないですよね?
たまにふと考えて、答えが出ず不安になってドンヨリし、考えてもしょうがないとばかりに次の瞬間にはテレビ見て笑ってたりするものです。
「死と樵」は、そんな何気ない日常に突如「死」が現れたとき、人はどう行動するのか。
色々考えさせられる作品です。
ジャン・フランソワ・ミレー 「死と樵夫」 1859年 77x100cm コペンハーゲン ニ・カルスバーグ美術館蔵 1814~1875
大鎌を持った死神のうしろ姿と、驚きのあまり体勢を崩して腰砕けになっている樵を描いた作品です。死神の表情をあえて見せず、うしろ姿だけというのが何とも不気味です。
樵は大きな木の枝の束を背負って休んでいたのか、あるいは、足下にも枝が落ちていることから枝を束ねている途中だったのでしょうか。
いずれにしても樵の慌て方から想像するに「唐突」だったように思えます。
死神は樵に向かって右腕を伸ばしています。今まさに魂を抜き取ろうとでもしているのでしょうか。
ですが、身体や足の向きは樵とは別の方向を向いています。しかも、鎌を肩に乗せているあたり、例えるなら仕事を終えて家に帰る途中のような物腰です。
死神としての仕事を終えて帰る途中にたまたま居合わせた樵を見て
「ついでにこの命ももらっていくか」
まさに「片手間」ですね。
唐突におとずれる死とは、案外このように死神の気まぐれで起こる予定外の死なのかもしれませんね。
このミレー「死と樵」は、ラ・フォンテーヌ寓話「死神と樵」の一場面を描いたものだといわれています。
La Mort et le Bûcheron
あわれな樵は体じゅう木っ葉だらけ
粗朶と年齢の重荷を背負い
うめき、背を曲げ重い足取りで歩を進めた
すすで汚れた小屋に帰ろうと努めながら
だがもはやこれ以上苦痛と努力に耐えきれぬ
粗朶を地面に降ろし、わが不幸を顧た。
この世にうまれてからどんな喜びを味わったろう?
この地球に彼ほど貧しい人がいるだろうか?
ときにはパンのひとかけらも無く、食事もとれず
女房、子供、兵隊、年貢
借金取り、苦役は彼を不幸に仕立てた
死神を呼ぶと、女神はすぐに現れた
何をして欲しいのか訊いた
「それは、つまり、この薪を背中に乗せて欲しいんだ、
時間はとらせない」
死はすべてを癒してくれるのに、
人はいま居るところから動こうとしない
死ぬよりも苦しんだほうがよい
それが人間の性(さが)なのだ。
Paul Gustave Doré, 1832.1.6-1883.1.23
樵は、生活苦のあまり「死にたい」と願ったわけですが、死神が望み通りに現れると直面する死に慌てふためき、死を選ぶより生きることを選びました。
死ぬことよりも苦しみを選ぶ。それが人間である。と説いてるんですね。
ユーチューバーの彼は何も死にたがっていたわけではありません。樵同様に命がけでお金を稼いでいました。
しかし、少なくとも1つ言えることは、いくら稼げるとはいえ、明らかに自ら死を招くような行動は充分注意が必要でしょう。
だって死神が勘違いするかもしれないですから。
参考URL
https://ja.wikipedia.org/wiki/ギュスターヴ・ドレ
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャン=フランソワ・ミレー